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AKIRA SUDOH / ARCHIVE

m&m BACKNUMBER

須藤晃が公式ホームページに書き綴ったメッセージと覚え書き。音楽、仕事、日々の出来事、そして時代についての言葉を、掲載当時の文章のまま収録しています。

※文章・表現は掲載当時のものです。現在の見解や状況を示すものではありません。

2005年 | 24件

2005年1月 4件

空港で携帯電話をして・・・

空港で携帯電話をしていた女性が突然大声を出した。「わたしのせいじゃないよ!」と何度もいう。羽田も到着予定地も雪模様で、天候調査で出発が遅れていた。そのことを迎えにきてくれる人に知らせていたのだろうか。きっと迎えにくる人に対する気遣いから電話したんだろう。時間の調整をしてわざわざ来てくれるんだろうから、遅れるかもしれないということを連絡したのに、あいにくいい返事がなかったに違いない。

「どうしてそんなこというの?帰るのやめるから、そんなこというなら」と女性は怒った。胸が詰まるような空気になった。確かに雪が降っているのは彼女のせいではないけれど、地方の空港は市街地から離れたところが多いから、迎えに行く方は面倒である。向かう方は相手が待っててくれているという思いもあるから「ごめんね」といいたくて遅れることを連絡して「どうして?」と非難されたら、へこむだろうなと思った。大声で自己主張を繰り返したあとに電話を切ってから、その女性は何事もなかったかのように待合室のいすに腰掛けて化粧をし直し始めた。ときどき電話の着信をチェックしているふうだった。

いらだちと平静心、感謝の気持ちと思いやりと謙虚さ、いろんなことを考えた。彼女は幸せそうには見えなかった。幸せなのかもしれないが、僕にはそうは見えなかった。世界の中心に自分がいるということは、外界との距離があるということ、つまり球体のど真ん中にはいるが、ひとりぼっちでぽつんと孤独な人間なのだということ、そんなことを考えた。

自意識だけを尊重して生きるということは群衆の中で携帯に向かって叫んでいるようなものであり、それは驚くほど滑稽で淋しい姿ということなのである。

報われることがない努・・・

報われることがない努力は美しいのか。疑問です。一心不乱に目標に向かって自分を向かわせる。努力する。これは志としては間違ってはいないんですが、その目標設定が正しくないと、その努力は努力ではなくなる。無駄が悪いとは思わない。無駄なことは人を成長させることも多い。しかし例えば空を飛ぼうとする。だから屋根の上から風呂敷を広げて何度も飛び降りていればそのうち大けがをするだろうし、下手をすると致命的なけがをするかもしれない。その努力は美しくもないし、それを努力とは呼ばない。気持ちが通じない人に対して波動を送り続ける。見つけ続ける。しゃべり続ける。ただの迷惑になることも多い。相手を傷つけたりもする。通じないことの理由があるから、その理由を考えなければ、思い続ける祈りなど自分勝手なわがままな思い込みでしかない。人にとってはいやなことなのだ。努力しているのになぜか報われないと嘆く。それは努力ではないということに気づかなくてはいけない。馬鹿な自分を美しいと思っている人はめでたい。めでたい人はお囃子の幻聴の中でいたずらに時間をむさぼる。努力している人は感傷に溺れることなくしらふでなくてはいけない。断食している人は自分が空腹ということを忘れてしまってはいけないのである。

特別話題にもならなか・・・

特別話題にもならなかった映画のDVDをたいした理由もなく何となく買ってしまって、あいた時間にまったく期待もせずに時間つぶしのように見たのに胸を打たれてしまう。またあるときは空港で登場時刻までの間の時間つぶしのために薄い文庫本を買って読み出すと取り憑かれたように引き込まれる。どちらも作った人の何かがこちらの心に直接つながった瞬間とでもいうのか。無警戒に見たり読んだりした分だけ不意に急所をやられてしまったかのようである。作品の命というか脈動みたいなものは、本来そんなふうに人に感じられるのが理想ではないかと思う。まるで恋に落ちるように作品に取り込まれてしまう。気持ちがワクワクして躍り出し強い喜びを感じる。時空間を越えて人間同士がつながった瞬間である。自分が関わった音楽や文章が、そんなふうに誰かの心に入り込むことがあればと願う。

ID とかパスワード・・・

ID とかパスワードが多すぎて煩雑になっている。パソコンは便利でいいんだが、どこに侵入するにも身分証明番号とパスワードが要求されて、いちいち書き留めるのも億劫になり、曖昧な記憶のままにしておくと必ず使えなくなる。忘れてしまうのだ。書き留めておいてもそれが数が多すぎて何がどれに対応しているのかが、わからなくなる。銀行のカードをスキミングされて預金を下ろされた人が銀行のセキュリティに文句をいい訴えたりしているが、それは筋違いじゃないかと思っていたら、あのカードは銀行の所有物で貸しているだけなのだという言い分を聞いて、だったらもう少し対策を講じたらどうかと思い直した。ATMで一度におろせる限度額を自分で設定出来るような対策をし始めているが、預かっておいて自由におろせるサービスを提供しているだけだから、ではすまないでしょうに。

2005年2月 2件

やる気のない人には、・・・

やる気のない人には、やる気をなくしている理由というものがあるのだろうか。「気合いだー」という言葉が昨今はやっていたが、まさしく困難なことをやり遂げるには気合いがいる。やる気のない人間と一緒に仕事をすると気合いが入らない。やる気をなくしている人にはその理由があるのかと書いたが、本当はないのではないかと思う。やる気というのはユーモアと同じで、ない人にはない、のではないかと最近思うようになった。理由があるとすれば、それはやる気がないことをなんとか正当化しようとしている自己弁護のためではないのかな。別にやる気がなければないでいいんだが、そういう人と一緒に何かをやりたくないだけである。やる気のないことは間違いではない。ユーモアのない人はなくていい。ただあまり近くにいたくない。やり遂げることが難しいことに挑戦してやり遂げる。こんな喜びを避けて通りたい人間などいるわけがない。一緒にやり遂げることに意味がある。そう考える人と手を取り合って喜びを分かち合いたい。それが仕事だと思う。だから仕事をするにはやる気のない人はいらない。

毎日顔を合わせている・・・

毎日顔を合わせている人は何人いるんでしょうか?顔を見て言葉を掛け合うことが出来る人が何人いるんでしょうか?コミュニケーションとは単に伝言し合うことではなく双方が相手のことを理解しようとしないと成立しませんから、顔を見て言葉を掛け合うように言葉に温度を感じないとダメです。メールは伝言のような気がします。そして伝言で十分のときもあるわけですから、いざというときは顔を合わせて話をすることが出来る環境にしておきたいものです。顔を見て話をするということは簡単そうでなかなか出来ないことです。電話やメールですませるということが人間関係を希薄なものにしていきます。いろんな事情で直接会うことが出来なくても、最終的には顔を見て話をするということが重要なんだと実感してます。

2005年3月 3件

雛祭りは華やかな節句・・・

雛祭りは華やかな節句である。季節の変わり目に催される行事のうちで最も華やいでいる気がする。1年間には五節句があり、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日と9月9日である。その中でも一番華やいでいる。長い冬のあとで雪の純白から少し桃色に着色された感じだ。三月は希望にあふれた月だなんてぼんやりしたことはいわないが、大きな変化の中継地点のような月ではある。年が改まって緊張していたはずの気持ちが二月病をへて若干治りかけた月なのである。その意味では少々ぼんやりしている時間帯といえる。春めいたといっても未だ寒さがしっかりと残り、だけど先取りして春の気分を味わいたいと思っている。華やかさは十分ありながらも、半分は冷凍が戻ってないようなそんな時期である。東京のサクラの開花予想が発表されたが平年よりもかなり遅めの今月のみそか近くになるという。まだまだ本当の春は遠い。

若年性健忘症のことを・・・

若年性健忘症のことを報道していた。二十代三十代に起こるという。その理由として、IT化した生活の中で刺激が薄くなっていることもあげていた。それは僕がずっと感じていたことである。電話で話すようなことではないから会って説明しなくてはいけないことも、手元にある携帯ですませようとし、その補足としてメールを打つ。誰でも多かれ少なかれ経験している。その電話番号だってメモリー登録しているから、いざというときに番号を思い出せない。ワープロを利用していれば、自動的に変換してくれるから漢字も覚えない。書こうとしても字がでてこない。細かいことから逃げておおざっぱな考え方になる。人は感動することから無意識に離れていっているのではないか。恋愛すら面倒になる。机の前に座り、パソコンのスイッチを入れてから画面と対峙してまったく動こうとしない。仕事とは画面を使ってコミュニケーションすることと化している。やる気が起こらない。僕は何年も前に映画『未来世紀ブラジル』を見たときに人間が歩んでいく未来の殺伐とした風景をかいま見た。その通りにならんとしている気がする。人の脳はそれほど優秀ではない。機械ではないから疲れる。情報の嵐でボロボロに傷んでいく実感を誰もがひしひしと感じている。

スマトラ沖の地震と津・・・

スマトラ沖の地震と津波のあとに、いざという時のために防災グッズを入れた緊急避難用の袋を作ろうという話題が会社内で出た。かなり真剣に議論して、内容物もだいたい決めた。時代が変わりつつあるから、古い考え方ではいけない。時代に即した防災グッズはある、ということになった。ところが時間が経つうちに、そのうちやろうでずっと来てしまって、今回の福岡の地震でやっぱりいますぐに作るべきだという話になった。携帯電話が通じなくなるかもしれないから、携帯充電用のキットと公衆電話用のテレフォンカード、そしてラジオと懐中電灯、防寒用の下着と靴下やTシャツなどの簡単な着替え、防水の折り畳みコート、それからもちろん二日分の水と簡単な食べ物、これは乾パンとかではなくて自分の好きなものを入れるほうがいいときいて、チョコレートなどの甘いもの。非常食ではよけいにストレスがたまるらしい。そして銀行の通帳と印鑑、ひとつでいいからいくらかのお金が必要になったときにATMは壊れてしまうから窓口でおろせるようにという忠告を防災特集番組で聞いた。それと現金、小銭も含めていくらかはいる。そして自分が安心出来るように好きなもの、本でもいいし、酒でもいいし、タバコでもいいし、インスタントコーヒーでもいい、何か緊張感をほぐすものがいいらしい。そしてメガネの替えと常備薬、これらを入れた袋を今週中に用意しておこうと思う。いつかやろうでは、地震は起こってしまう。当たり前だが、備えあれば憂いなし。

2005年4月 1件

人がせっかちになる。・・・

人がせっかちになる。結論を急ぐということは熟慮しなくなっているということです。ゆっくり考えてみればわかることも多いのに、考えるのが面倒になる。いいんじゃないの、という話が増えてくる。北朝鮮問題に関して、経済制裁のことが世間でいわれ始めると、みんながそれで正しいと思い始める。でも普通に考えても、北朝鮮の民衆は飢えに苦しんでいるのは周知の事実で、その人たちに制裁を加えることが正しいと言い切るのは変ではないでしょうか。拉致や核の保有など問題は多いけれど、話してもわからないんだからという言い方は適切ではない。誰がいったい金正日ととことん話したというのだろうかと思う。話が出来ないから問題なんだという声もあるが、そこは小泉さんのいう対話と忍耐ではないかなあ。自国の憂鬱な問題は自国の中でもさんざん困っているはずだし、誰よりも彼らが深刻に考えているのである。それでも解決しないから回りに援助を求めているのだろうし、その困った状態からいったんは解放させて、まともな状態で話をするようにしてはどうかと思う。真の友好関係を結ぶには信頼し合うことから始めなくては絶対に進まない。僕は経済制裁という戦争状態には賛同しかねます。力ずくでわからせるというやり方はどうにも納得出来ない。

だって隣に住んでいるわからず屋に堪忍袋の緒が切れたからと、水道を止めて家に火をつけては元も子もないでしょうが。暴れん坊の家長に直接話をしにいくことから始めなくては全部がだいなしです。いつも思うんですが、壊すからには新しいことを作り出さなくてはいけません。壊すことは簡単、作ることが大変なんです。

2005年5月 3件

インターネットでの音・・・

インターネットでの音楽配信は誰がなんといっても来るべき未来の姿である。これは否定出来ない。パッケージビジネスと比べても、製造コストはいらないし、在庫管理も不要で、輸送コストもいらない。この方向にすべてが進むことを「時期尚早ではないか」「まだまだだと思う」などと述べているのは、人はうまくやれば死なないといってるようなものだ。必ずインターネットによる音楽配信が主流になる。違法なファイル共有を避けるためには合法的なダウンロードシステムを作ってきちんとした課金インフラを作るしかない。子供が考えてもはっきりわかることじゃないか。そのための法の整備も急務である。全体として、その流れに目を背けていると取り残される。口承伝達していた歌をテープに録音して、それをレコードにして大量頒布した。そして次の段階である。システムが変わるのに何年かかるのか分からないが、その必要時間は縮まるばかりで延びることはない。文明開化の新しい音がしているのだ。

創作意欲というものに・・・

創作意欲というものについて考える。ものを新たに作り出したいという衝動はなぜ起こるのだろうか。目の前に粘土があれば、こねくり回して何か形のあるもの、意味のあるものを作りたいと思うはずである。まずは粘土がなければいけない。

趣味についての意見として、趣味でお金を儲けてはいけないし、むしろ使わなくてはいけなくて、しかもそのことで一流でなくてはいけないという。だから読書や映画鑑賞は趣味とはいえないらしい。読んだ本や映画を分析してそれなりの何か人が感心するようなことを語れれば趣味といえるのだろうが、のんべんだらりと楽しんでいるだけでは趣味ではないのである。それは暇つぶしというらしい。HOBBY(趣味)とPASS TIME(暇つぶし)はまったく似て非なるものなのだという。

そんな格調高いものが趣味だとすれば、当然僕は無趣味である。そして目の前には仕事用以外の粘土が見当たらない。

時計が好きで集めてい・・・

時計が好きで集めていた時期がある。そのうち毎日日替わりで腕にしていることが面倒になり、集めることをしなくなった。中には高いものもあるが、ほとんどがデザインのおもしろいもので、本当に高価な腕時計をしている人も多いので、自分はそれが趣味だとはいわずにいた。最近持っている腕時計を全部出してみて、電池ものは電池を替えて動かしてみた。それで気づいたのだが、結局一番愛着があるのは親父の形見の古いセイコーの時計である。竜頭で手巻きのものだ、文字盤が黄ばんでいる。だけれどベルトすら替えられないでいた。さすがに一度切れたのでベルトは交換したのだが。そんなことがあり、先月旅行したときに息子に時計をプレゼントした。気に入ってくれたが、彼もまたいくつも持っているので、いずれそれが一番のお気に入りになることを祈る。

2005年6月 2件

自分の考えを押し付け・・・

自分の考えを押し付ける気持ちなどないという。だが押し付けている。発言するということは主張に責任がつきまとう。わたしはこう思うだけなんですという。そうですか、あなたの考えはそうなんですかと聞かれれば、いや違いますとはいえない。つまりは自分の考えを人に対して突き出している。あなたはあなた、わたしはわたしですから、ただわたしに考え方を話しているだけですという。だったらいったことには責任を取りなさい。いいっぱなしはいけない。そう思われたくないなら考えることは自由ですが、話してはいけない。外に向かって言葉を発するということは自分の意見を主張しているということだから、話したことには責任を持たなくてはいけない。独り言ではすまない。

まるで日記を書くように書いたことを公開して、それが誰かを傷つけたりしていることに気づかないでいる。公開するということは書いたことに責任を取るということである。それがいやなら、簡単に自分の意見を書くべきではない。書いてはいけないのではなく、書くからにはそれなりの覚悟をしなさいということである。

世の中には男と女しか・・・

世の中には男と女しかいないわけですから、男と女の関係を表現したいい文句がたくさんあり、目に止まります。独身主義者だった僕の友人が話してくれた言葉で「結局、男は飯がうまい女のところにいくんだよ」というのもなかなか味わいがありますし、「女は火だよ、暖まっているうちはいいけれど近づきすぎるとやけどする」というのもなかなかいいですし、「もう何もいらない、金も名誉も何にもいらないから、たったひとついい女がほしい」といった男の言葉も説得力があるといえばある。男と女の関係において不道徳なことなどまったくないといいきる友人は、ただそれをしゃべることは不道徳だといった。

夫婦というのも元々は他人ですから、これがどんな理由であるにしろ、一緒にずっといるほうが奇妙です。いやなところにうんざりして別れてしまうほうが自然といえば自然で、だから添い遂げる夫婦というのは奇跡のようなものです。よっぽど相性がいいのかなと照れ笑いをして夫婦仲の良さを話してくれる人に、相手が優れているんです、間違いなく、といってる人を見ました。

セクハラというのも、男の一言に腹が立つのは言葉に対してじゃなくて、その男が嫌いということだけじゃないでしょうか。ものすごく化粧をしていい香りをさせている女に腹が立つということもあるんです。口に出して男はいいませんが。

狐と狸の化かし合いという言い方もありますが、持ちつ持たれつ、仲良くしたり喧嘩したり、男と女は果てしなき自己顕示と縄張り争いというか権力闘争をし続けているんじゃないかな。

2005年7月 2件

もう二度と会わないで・・・

もう二度と会わないであろう人にでさえ、人は気をつかったりする。その場限りの相手に誤解されても、どうってことないじゃないかと思うが、人は気が小さい。タクシーに乗って二、三、会話を交わして運転手に道順を教えたときにでも、運転する人の判断に任せたほうがよかったんじゃないかと考えたり、「普段自分が運転する時の道順なので...」とことわったりしている。運転するほうの立場であれば、客が指定した行き方で行ったほうが気が楽で、それよりはこちらのほうが近いですよということもいわない。そっちはクールなのに、金を払って乗っているほうがやたら気をつかっている。売店で細かい端数がなくて大きな紙幣を出したときにも、「すいません小銭がなくて...」と頭を下げている。もう会うこともない人にそうなんだから、また会う可能性があればなおさらである。だから社会生活は疲れるのだ。だから内側にいる家族や恋人にはわがままになる。簡単な構図ではないか。内側にいる人間と外側にいる人間の違いである。わがままをいわれるということは身内だと思われている証拠のようなものだ。だから腹を立てない。許してあげましょう。

大衆性ということにつ・・・

大衆性ということについて考える。

夏目漱石という大作家を知らない人はない。「我が輩は猫である」などというおかしなタイトルの小説を初めて知った時に子供心に他の大作家とは違うなと感じた。彼はロンドンに留学していた英文学学者であると同時に、最もハイカラなセンスを持っていた明治人だった。ユーモアは大衆性に通じるわかりやすい要素である。しかし彼の生きた時代での彼のセンスは落語や英文学に精通していないとわからないたぐいのユーモアが多かったのでインテリ向きだった。それでもいま読んでみても、夏目漱石の書いた本は食べやすい食べ物である。ハイセンスではあるが、どこか大衆性をかね備えていたのである。

芸術家に対してその時代が与えた評価と後世の評価とが一致しないこともある。時代における異物感とか違和感であろうか。突然変異のように新しい形をしたものに対して大衆は正当な評価を与えたがらない。保守的だ。長い時間帯で見たときに文化や芸術全体の進化のために、そのアーティストが果たした役割が明確になることもあるのだ。評価が上がることもあれば下がることもある。

大衆性というものが、その評価に関わる意味合いは大きい。大衆に迎合するようなものは一時的に受け入れられやすいが、飽きられやすく、結果として強い支持を得られない。本当の大衆性は一部の人に熱狂的に支持されて、その温度が時間が経つに連れて伝導するようなものであると思う。

いま一般大衆の圧倒的な支持を得ているものを見渡したときに、本当の大衆性を獲得しているもの、または本当の大衆性を持ち得ているものが判断出来るであろうか。

夏目漱石の小説は現在も大衆性を持った作品といえるかどうか、むずかしいところである。書棚の肥やしになってはいないか。マスコミに煽動されることなく、自分たちの目で耳で心で支持するべきものを見つけ出しているだろうか。大衆は利口なのだ。大衆性が有効である時代でなくてはいけない。

2005年8月 1件

「NOBODY」とい・・・

「NOBODY」という映画雑誌がある。僕の知人がスタッフのひとりである。雑誌の中に取り扱い書店が書いてあるが、残念ながら書店で見かけたことはない。サブカルチャー雑誌としてはかなりこだわりのある編集で読み応えはあるが、応援しようにも相当の雑誌好きか映画好きでない限り知っている人は少ないと思われる。僕が携わっている音楽の世界でいえばインディーズである。読者にこびないでいられる分だけ運営が大変だろうなと思う。余計な心配ですと怒られそうだが。

マイノリティが次のサブカルチャーの発芽を促している。既成概念からどこまで解放されて作れるかにかかっているのではないかと思う。少数派としての開き直りが必要である。よく似たものを作るくらいなら作らないほうがいい。弁当屋にパンが並んでいることはないから、並べてください。

2005年9月 1件

近くの公園で911テ・・・

近くの公園で911テロをモチーフにしたイベントをやっていた。平和運動の一環としてイラクの反戦運動家の来日を伝えピースウォークへの参加などを呼びかけられて、様々な団体が出店しているのを見た。一回りしてバンドが音楽をやり始めたと思ったら雷鳴が轟き土砂降りの雨である。すべての催し物は中止になり、人々は大慌てで帰り支度をして、集まった人たちも木の下に避難したり近くの店に逃げ込んだりした。雷は小一時間で収まり、今度は静かな雨になった。折しも衆議院選挙の投票のまっただ中の時間である。夕方に向けて投票へ向かう人の足が鈍るだろうなといいあう。それ以外は何も変わらない日曜日の午後。そして一夜が明けて、夏のような快晴。選挙は自民の圧勝で終わる。全部がすんだような錯覚に陥るが、問題は何一つ解決していまい。これからである。2005年9月12日に想う。

2005年10月 3件

ある夜突然目が覚めて・・・

ある夜突然目が覚めて眠れなくなる。仕方がないので軽くのどを潤してからテレビをつける。どうしてテレビをつけるんだろうか。少しの灯りがほしいのか。テレビをつける瞬間に無意識な自分の動きに嫌な気分になる。なのにテレビをつけてしまう。その日テレビには地下鉄の車内の映像が映し出されて、それはどうもニューヨークの地下鉄のようだったが音を消しているから僕はそこで展開される映像の顛末をただじっと見ていた。口を開いた男が老女になじられて激昂する。反射的につかみかかろうとして男は別の男に撃たれる。音声は何も聞こえない。そこで僕はテレビを消す。煙草を吸って雑誌をめくって数分後にまた僕はテレビをつける。今度は撃った男がベッドで女と寝ている。女の髪をなでて目を見つめあい、その女が何かをいったとたんに男は激昂し、女の首を締め上げる。そこで僕はテレビを消す。リモコンを手の届かないところにおいて、ソファに横になりやがて僕は眠りにつく。翌朝目が覚めて僕は地下鉄で男を撃ちベッドで女を絞め殺した夢を見たと思う。人生なんて一瞬の夢じゃないか。

人からやれといわれた・・・

人からやれといわれたことにどんなに精進しても、なかなか成果を得られない。それに反して自分の心に浮かんだことに突き動かされて行動したときには予想以上の成果を得られるものだ。ということは人は自分自身の内面と直接向かい合って歩く方向を決めなくてはいけないということなのである。君は何がやりたいのか、何がほしいのか、どうなりたいのか、それを自分に対して問いかけることだ。そして出てきた答えに立ち向かうべきである。そこで人は成長する。それだけは確かなことだと学習してきた。

何度もここで書いていることで恐縮だが、来月の尾崎豊のバースデイスペシャルに関して少し補足したい。彼が亡くなってからずっと行われてきたイベントだが、今年は東京、大阪、名古屋の3カ所で開催されることになっている。僕自身もゲストとして参加したり、ある時期からは主催者側に立ち開催する役目をなしてきたが、今回のイベントで一度区切りを付けたいと考えている。誤解を招かないようにいうが、僕がこのイベントの進行役をするのは今回が最後になると思う。本当にいろんな方々の理解と協力があり実現してきたイベントであり、なくしてはいけない会なのだが、僕と尾崎豊との関係においては今回のイベントで僕の役割はいったん落ち着かせたいと考えている。だから長年応援してくれた方がたにはぜひともその場所でご挨拶ができお会い出来たらと思っている。その日の一期一会を夢見ている。楽しみである。ちょっと切ないけれど。

時は流れない、積み重・・・

時は流れない、積み重なるものだ。

君の人生を豊かにしなさいということを若い人によくいう。人生を豊かにするというのはどういうことですかと聞かれる。そんなときに僕はこう答える。

「たとえば15歳のときに読んだ小説をいま読むと、その当時わからなかったことがわかるし、いくつになっていても15歳の自分の心にすぐに戻れる。25歳のときによく聴いていた曲をいま聴くとその当時に戻れた気がするし、その頃からの時間の流れをリアルに感じ取れる。つまりどんなときでもいまが大切で、いまの自分は過去からの自分の積み重ねの上に生きているんだね。時は流れて過ぎていくものではなくて積み重なっていくんだよ、だからその積み重ねで人は少しずつまるで重ね着をするように大きくなれる。そうして生きていくことが豊かになるということだと思うよ。だから自分の心に染み渡るようなことになるべくたくさん出会い経験していくことが大切なんだと思う。振り返って自分の心を揺り動かした映画や音楽や芝居や本などの作品、そして人との出会いや恋愛や情熱などをたくさん抱えているほど豊かじゃないかな」

終わってしまえばすんでしまうことなどひとつもなく、忘れてしまいたいことですら積み重なっていくのが人生ではないか。薄い層が何層にもなってその人の人生を豊かにする。そんな考え方で僕は音楽の仕事をしている。

まさしく時は流れず、積み重なっていくことを実感する。

2005年11月 2件

FALSE ACTI・・・

FALSE ACTIONという言葉がある。間違った行動、予想外の行動とでも訳すのか。これを僕が最初に聞いたのは大学生のときで、しかも演劇に関する授業のときだった。ウェスカーという作家がいて、その彼の作品についての特色を教授が述べているときに出てきた。例えば家族の誰かが山菜採りに山に行く。暗くなっても帰ってこない。おかしいねえなどと話が出ているうちに風が強くなっていきなり雷が鳴り雨が降り出す。そうするとこのドラマを読んだり見ている人たちはきっと山に入った人は遭難するんじゃないかと想像する。急ブレーキの音がして役場の関係者が玄関から飛び込んでくる。家族はみんな息を飲む。これに続くシーンは「大変だ!」という台詞が来るべきだと誰もが思う。そんなときに役場の男と思われたのが隣の坊主で醤油を借りにきただけで、しかも遭難しているんじゃないかと思われた男は一杯引っ掛けて真っ赤な顔で帰ってくるとする。そんなふうに読み手や観客の想像を裏切る、これがフォルスアクションである。みんながそうなると思うような状況を作り上げて、それを裏切る手法である。

最近はドラマなどの作り物ではない現実でもこのフォルスアクションが多い気がする。つまり人の行動パターンが多種多様になった。本来ここは遠慮すべきところというところで遠慮しないほうが当たり前になったり、ぶしつけだと考えられていたことがしゃれてる印象を与えたりすることもある。要するに常識が欠如してきたのだ。正確にいうなら、常識がなくなったのである。みんなが一様に感じること、みんなが一様に反応することが少なくなってきているのだ。ドラマのエンディングが必ずハッピーエンドじゃおかしい。人生の節目節目は必ずしもハッピーではない。そうしたらそれは常識というくくりがおかしいということに気づいたのである。嫁いだ娘が幸せな結婚生活を送り孫を連れて帰省するとは限らず、夫婦関係に疲れて性格も悪くなってアル中になって戻って来ることもあるというのが現実ではないか。

僕たちはいつの間にかFALSE ACTIONだらけの世の中に生きているのである。   

「結婚しない女」と「・・・

「結婚しない女」と「就職しない男」は、どこか似ている。そして「結婚しない女」も「就職しない男」もどんどん増えている。どちらもいままでの常識を逸脱しているという点で似ているのだろうか。常識を逸脱しているという言い方よりも常識ではとらえきれないというべきか。ともかく長い間、女は適齢期になると結婚して家庭に入り、男は仕事を持つことで社会人になれた。それが人生の大人としての出発点であるかのようにいわれてきた。ところが正反対の価値観が世にはびこり始めたのだ。もう20年以上前ぐらいからその前兆はあった。どこか自由でいたいという発想が根底にはある気がする。結婚することで女は自由を失い、サラリーマンになることで男は束縛された人生を送ると思い始めたのである。自分たちの親がそういうふうに見えたのだろう。そしてフリーターの増加に加えてニート呼ばれる一見無気力な人たちが出てきた。彼らは無気力なわけではなくて自分たちが新しい考え方をもっていると密かに確信していたわけで、すべての規制から解放されたがっているのだ。女たちもしかり。誰かのために自分の時間を制限されずに生きることに喜びを感じ、しかも社会的な責任を持つことのほうが家庭の責任を持つなんてみみっちいことよりは遥かに充実感があると主張する。このまま結婚しない女と就職しない男が増え続けたらどうなるか。簡単なことだ。子供の数が減り、夫婦の数も減り、1LDKの部屋が増え、孤独な老後をむかえる人も増え、世の中は金を持った女と金のない男ばかりになる。「結婚しない女」が結婚出来なくなった女と気づく前に、そして「就職しない男」は就職出来ない男になってしまう前に、豊かな人生とは何かをもう一度考え直してみなくてはいけない。人生はいつか終わることを忘れてはいけない。